沖縄情報

「賀数仁然さんと行く組踊”執心鐘入”ツアー」に参加してきました(前編)

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毎週土曜日のお昼に放送されているローカル番組「Aランチ」で、以前「沖縄ふしぎ発見!」という、どこかで聞いたことのあるような特集が放送されました(笑)

琉球史芸人の賀数仁然(かかず・ひとさ)さんがMCを務めていたのですが、私にはこのクイズがツボでした!
面白いので「沖縄ふしぎ発見!」が放送される度に、食い入るように見ています。

その賀数仁然さんが解説をしてくださる、組踊「執心鐘入(しゅうしんかねいり)」観劇と創始者の玉城朝薫(たまぐすく・ちょうくん)ゆかりの地をめぐるツアーに参加してきました。

内容テンコ盛り、写真も多めでお送りします。

※21年5月のブログに加筆して公開します。

賀数仁然(かかず・ひとさ)さんはこんな方

琉球の歴史と文化を愛する賀数仁然(かかず・ひとさ)さんは、テレビ、ラジオ、新聞でも活躍されていますが、小学生相手に歴史の話をするなど、場を問わずに活躍されています。
その知識は膨大だと思われますが、親しみやすくコミカルな語り口なので、押しつけがましさがありません。

賀数仁然さんの解説ならば、誰でも歴史好きになること間違いなし!?なので、沖縄生まれの方にも、県外出身の方にも是非、賀数仁然さんの解説を聞いて欲しいなと思います。

まずは識名園へ

国立劇場おきなわの駐車場に集合し、バスに乗り換えて識名園へ向かいます。

今回のツアーは組踊の観劇と組踊を作った玉城朝薫ゆかりの地をめぐるツアーです。

識名園は、琉球王府の保養と冊封使(さっぽうし)をもてなすために1799年に建築されました。

組踊も冊封使をもてなすために演じられたもので、琉球を理解するうえで、冊封使は重要なキーワードになります。

冊封使とは、中国の皇帝の使者なので、今風に言うと”超VIP”です。冊封使は、400~500人の使節団で、風向きが変わらないと船で帰れないので、琉球に半年くらい滞在しました。様々なおもてなしが必要だったわけですね。

番所

正門のすぐそばにある番所では、番人が住み込みで働いていました。腕っぷしの強い人が選ばれていて、偉大な武闘家として有名な武士松村も働いていました。沖縄の空手は武士松村抜きには語れないとも言われているくらいの人です。ちなみに武士松村が牛と闘って勝ったことから、「牛殺し」と呼ばれ、多くの武闘家がウシやクマと闘う先駆けになっています。

育徳泉(いくとくせん)

池の水源になっている泉です。王族に関係する泉なので、石垣が美しいアーチ状に作られています。琉球王朝時代の技術の高さがわかります。

御殿(うどぅん)

王族や冊封使が来られた時には、御殿の前の庭で音楽が演奏されました。

また、丁子風呂(ちょうじぶろ)と言って、丁子(クローブ)を炊いていい香りを漂わせていて、その香りでも村の人々は国王様が来られたことに気が付いたそうです。

丁子風呂という名前ですが、写真を見せて頂いたところ、見た目は今のアロマポットのような形をしていました。丁子はスパイシーな香りで、今でもカレーや肉料理に使われるだけでなく、歯医者の消毒薬にも使われています。丁子は消毒の効果もあるので、おもてなしのひとつだったと考えられます。

丁子はインドネシアでしか採れないのですが、琉球は貿易していたので、入手が可能だったのです。

御殿にはトイレがなかった!

なんと御殿にはトイレがありませんでした。王族や冊封使は裏座二番に”おまる”を置いて使用したそうです。位の高い方は目隠しなどをして使用したのでしょうけれども、料理人などはそうもいかなかったと考えられ、外だったかも・・・?と私の勝手な妄想が広がりました。

今の識名園は戦後、尚家が復元したものですが、その時にはトイレが作られています。(今は使用できません。駐車場にあるトイレが便利です。)

台所

この大きな板はまな板で、4人の包丁人で野菜などを切ります。まな板の下には穴があって、野菜くずなどを落とせるようになっています。作業後に水で洗い流し、建物の外へ流れ出る仕組みです。琉球はきちんと排水のことを考慮している施設が多く、素晴らしいなと思います。

御茶湯御酒羹所(おちゃゆおさけあつものところ)

冊封使や国王が来られている時、台所は大変忙しくなります。ここは、お料理や飲み物をベストなタイミングで提供するための重要なポジションで、今でいうところの”電子レンジエリア”です。

冊封使が来られた時は、池に舟を浮かべたり、花火を打ち上げておもてなしをしました。

池にかかる橋が美しい

庭園は廻遊式庭園(かいゆうしきていえん)で、本土の庭園でよく見られる形式ですが、石橋には中国でめでたいとされる石に似たものを使ったり、中国にある橋を模すことで冊封使の関心を呼びました。

詰所

御殿の裏手にある輿の担ぎ手の詰め所です。王族は首里城から輿に乗り、門をくぐって御殿で降ります。8人の担ぎ手を要しましたが、体力だけでなく見た目(イケメン!)も重要視されていたので、名誉職と考えられていました。

勧耕台(かんこうだい)

ここは見晴らし台になっています。海が見えないことで、冊封使に琉球を広い国であると思わせ、田んぼに映る夕日を見せて郷愁(きょうしゅう)を誘いました。

琉球は国王が変わるたびに、中国の皇帝に認めてもらう関係にありましたが、中国に対して卑屈になっていたのではなく、うまく交渉を進めるために心を配っていたことがわかります。しなやかでたくましいその姿は、今の沖縄の人々にも受け継がれているのだと感じました。

やはり長くなってしまうので、後半に続きます。

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