沖縄情報

「賀数仁然さんと行く組踊”銘苅子”ツアー」にまた参加してきました

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沖縄のローカルテレビ番組「Aランチ」で、「沖縄ふしぎ発見!」と言う、沖縄の歴史クイズが放送されました。
この時にMCを担当していたのが、賀数仁然(かかず・ひとさ)さんでした。解説がとても面白く、毎回かじりついて見ています。

5月にその賀数仁然さんと行く、「組踊ツアー」に参加したところ、とても楽しかったです。
旅行会社から「組踊ツアー」の案内を頂いたので、10月に、また参加してきました。

今回は、「那覇港内歴史クルージングと組踊・銘苅子(めかるしー)の鑑賞ツアー」です。
早速、ツアーの様子をお届けします。

※21年10月のブログに加筆して公開します。

国立劇場おきなわから泊港へ

集合場所は国立劇場おきなわです。観光バスに乗って、泊港へ移動します。

賀数仁然さんの解説が付いたツアーは何度も開催されているそうですが、今回は初めて船に乗って、那覇港内を歴史クルージングするツアーです。

頂いた明治時代の沖縄の古地図と見比べながら、賀数仁然さんの解説を聞きます。

琉球王国時代、琉球は日本、中国、朝鮮、タイ、ベトナム、マレーシア、インドネシア、フィリピンなどと交易をしていました。

カチャーシーの曲として有名な「唐船ドーイ(とーしんどーい)」は「中国の船が来たぞ」の意味で、中国からの交易船が来て嬉しく、気分がアゲアゲ♪になる様子を歌っています。

唐船ドーイは今でも頻繁に聞きます。東京出身の私も聞くと心が浮き立つので、沖縄の人々の気持ちが良く表現されている曲だと思います。

当時、船が入港する時は、祝砲を2回鳴らしました。琉球には、種子島に鉄砲が伝来するより、ずっと前に鉄砲が伝わっていたので、火薬があったのです。火薬があったので、祝砲や花火も本土より早く使われていたのです。

那覇港内歴史クルージング

那覇港は三重城(みえぐすく)の河口が狭くなっています。
こは、国場川から水と泥が流れ込むので、泥が溜まってしまいました。泥が溜まると船が入れなくなってしまうので、度々しゅんせつ工事をする必要がありました。

1719年に、中国の皇帝の使者である冊封使(さっぽうし)が来ることが決まっていました。超VIPである冊封使をお迎えするために、玉城朝薫(たまぐすく・ちょうくん)がしゅんせつ工事の指揮を執り、河口を狭くすることで水圧を高め、泥を港の外側に吐き出しやすくしたのです。
300年以上も前の工事が今もそのまま使われているのは興味深いですね。

玉城朝薫は、組踊の創始者です。1719年に組踊が冊封使の前で初披露されていますので、しゅんせつ工事と組踊の準備が同時進行だったのではないかと考えられています。玉城朝薫は、予算を管理し、スケジュールを調整し、人々を動かすプロデューサーとしての能力が高かったのですが、とても忙しかったことが伺われますね。

那覇港内はサンゴが発達しないので、船が入ることが出来ます。湾内は波もなく、台風被害も受けにくい、上質の港だったので、発達しました。

ですが、倭寇など海賊も出没するようになりましたので、三重城と屋良座城に砲台を設置しました。

屋良座城は米軍が壊してしまったので残っていませんが、三重城は今も残っています。

船からなら、陸上からは見ることが出来ない角度で見ることができるので、とても貴重です。

 

御物城(おものぐすく)

こちらも船でないと見ることが出来ません。アーチ門が美しいですね。

御物城は、那覇軍港の敷地内にあるので、特別に許可を得ないと入ることが出来ません。賀数仁然さんは、以前、入ったことがあるそうで、その時の様子がローカルテレビ「Aランチ」で放送されていました。

立ち入りの許可の理由を「御願(うがん)」とするのがポイントだそうです。米軍も信仰に対しての理解があるのですね。

御物城には、お宝もあったとも言われていますが、武器とお酒も隠してありました。お酒は清と濁があったと書かれているので、泡盛の仕次をしていたと考えられます。

琉球は、ベンガル産の布を売っていたと文献に残っています。アジアのほうが、生地の染色などがヨーロッパよりも発達していたので、インド更紗が人気でした。インド更紗を真似してつくったのが紅型ではないかとの説もあるそうです。確かに、似ているものもありますね。紅型は組踊の衣装になり、おもてなしの際に着用する服にもなりました。

 

那覇港から湾の外に出て、サンゴのたくさんあるエリアへ移動しました。

風が強く船が揺れます。同行していた旅行会社のスタッフさんも柵をつかんでいますね。

琉球王朝時代、大きな船は湾の外に係留して、小さな船で近寄って乗り換えたそうです。琉球の人々は方位磁石を使いこなしていたものの、風は読み切れなかったので、湾の外に出てから風の強さを知って、引き返すこともよくあったそうです。

 

船の1階に降りて、窓から海の中を鑑賞します。天気が悪い日が続いていたので、ちょっと濁っていましたが、那覇にも美しいサンゴが広がり、魚たちをたくさん見ることが出来ました。

写真はうまく撮れませんでしたが、オヤビッチャ、クマノミ、ハマクマノミなどなど見ることが出来ました。

泊外人墓地

船を降りて、泊港のすぐ近くの外人墓地へ移動しました。

琉球王朝時代、船が入港すると、まず、抜け荷のチェックを受けます。次に病気のチェックをします。

もし、病気の人がいた場合には、泊にあった療養所に移されました。残念ながら亡くなってしまった方を葬ったのが、外人墓地です。

ここには「ペルリ提督上陸之地」と書かれた石碑があります。ペルリとはペリーのことです。黒船で有名なあのペリーが沖縄にも来ていたのですね。

琉球はペリーをおもてなししつつ、交渉をのらりくらりとかわしています。冊封使をおもてなししていた経験が活かされているのですね。

琉球サンロイヤルホテルでランチタイム

琉球サンロイヤルホテルへ移動して、ランチタイムとなりました。

写真の松花堂弁当とご飯と、お漬物、おみそ汁が付き、サラダとデザートと飲み物はビュッフェ形式で、写真が撮り切れない程でした。どれもおいしく、ボリュームたっぷりでした。

偶然にも、私は賀数仁然さんの隣に座らせていただいたので、ランチタイムも沖縄にまつわる話で盛り上がりました。

琉球サンロイヤルホテルは戦前はデパートだったそうです。十十空襲で被害を受けてしまいました。

ホテルの前には案内板も設置されています。

琉球サンロイヤルホテルから少し歩くと、西武門(にしんじょう)病院があります。

ここは以前、芝居小屋がありました。明治時代に琉球が沖縄県になると、芸能をしていた士族が生活に困ってしまい、芝居小屋を作って組踊を披露し、庶民から木戸銭(入場料)を取っていました。この組踊が大衆に受け入れらるように、恋愛や人情物の要素を加えた沖縄芝居へ発展したと考えられています。

国立劇場おきなわで「銘苅子」を鑑賞

国立劇場おきなわに戻って、銘苅子を鑑賞しました。

二部形式になっていて、一部は組踊の解説など。二部が組踊「銘苅子」です。

銘苅子(めかるしー)のあらすじを簡単に紹介します。

農夫の銘苅子は、泉で髪を洗っている天女を見つけます。天女の美しさに魅せられた銘苅子は、天女の羽衣を隠してしまいます。銘苅子と天女は結婚し、二人の子供(姉と弟)が生まれます。
子供の歌から、天女は羽衣のありかを知ってしまい、子供たちを置いていく悲しみを感じつつ、天へ帰っていきます。

子供たちは母親を探し回りますが、見つかりません。その噂が首里まで伝わり、お城に取り立ててもらえることになりました。

ちょっと無理やりな感じもするストーリーですが、昔のシンデレラストーリーと考えれば、腑に落ちます。

きっと冊封使は、食事やお酒を楽しみながら、わかりやすくて安心して見ていられる芝居を好んだのでしょう。当時の情景が目に浮かぶようです。

ツアーに参加するたびに、新しい発見があって、とても貴重な楽しい1日となりました。

また参加したいと思います!

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