沖縄のロカール番組「Aランチ」で「沖縄ふしぎ発見!」という沖縄の歴史クイズを見てから、MCだった賀数仁然さんに魅せられました。
その賀数仁然さんが解説してくださる「組踊ツアー」に参加してきました。前編に続いてお届けします。
※21年5月のブログに加筆して公開します。
玉城朝薫生誕の地
識名園を見てまわり、しっかり「王朝食パン識名園」でパンも購入して
再びバスに乗って首里桃原町の玉城朝薫(たまぐすく・ちょうくん)生誕の地へ向かいます。
玉城朝薫は、王族の血筋を受け継ぐ名家に生まれますが、生まれてすぐに両親が離婚してしまいます。父方に引き取られますが、朝薫が4歳の時に父が亡くなります。祖父に育てられましたが、この祖父はイケメンで、芸能に秀でた方だったので、その影響からか、朝薫もイケメンで踊りの名手だったと言われています。この祖父も朝薫8歳の時に亡くなってしまい、寂しい幼少期を過ごしています。
そのせいか朝薫の五番と呼ばれる組踊の演目、「執心鐘入(しゅうしんかねいり)」「二童敵討(にどうてきうち)」「銘苅子(めかるしー)」「女物狂(おんなものぐるい)」「孝行之巻(こうこうのまき)」には、お母さんが出てくるものが多いです。
加良川のほとりに石碑が立っていますが、玉城朝薫が生まれたのは川のすぐそばの家で生まれたと考えられています。
加良川の脇には井戸がありますが、地域の生活用水だったので、石垣は直線的なあいかた積みになっています。ここは玉城朝薫が産湯を使ったとの謂れもあるとか。
尚家へ寄り道
スケジュールにはありませんでしたが、すぐ近くの尚家へ寄り道しました。こちらの尚家は琉球王族の血筋です。
尚家の敷地の中にある佐司笠樋川(さしかさひーじゃー)は、組踊の演目でもある「銘苅子」の孫が鷺(サギ)が止まっていたのを見た(夢かも?)のをきっかけに掘り当てました。私有地ですが、解放されているので拝みをする方が自由に訪れることが出来ます。
ここも王族が利用するので石垣が美しいアーチ状になっています。
玉城朝薫の墓
前田トンネルのすぐそばに玉城朝薫のお墓があります。モノレールの軌道がお墓を避けたとも言われています。ホントかな?
朝薫は亡くなった後、その遺言により”ひとり墓”に埋葬されますが、のちに子孫によって邊士名家(へんとなけ)のお墓に埋葬されました。姓が変わっているのは治めている地域が変わったからで、当時ではよくあることでした。
ちなみに沖縄出身のDA PUMPのISSAの本名は辺士名一茶(へんとな・いっさ)と言います。同じ姓なのは、子孫だからだそうです!
ISSAって、玉城朝薫の子孫でクオーターなんですよね。すごいな。
玉城朝薫は12歳から首里城で働き、その能力を高く買われて、どんどん出世します。しかし、王府の実質的な行政の最高責任者である三司官(さんしかん)を目前にして、歴史の表舞台から姿を消してしまいます。原因がはっきりしていないので、謎になっています。妄想が広がりますね。
おもろ殿内でランチタイム
ランチタイムとなり「おもろ殿内(どぅんち)」で特別メニューの昼食を頂きました。
和食と沖縄料理の両方がありました。お庭を眺めながら、沖縄民謡を聞きながらのおいしいランチタイムになりました。
国立劇場おきなわで「執心鐘入」を鑑賞
組踊は踊奉行(おどりぶぎょう)に任じられた玉城朝薫によって作られ、1719年に首里城の御庭(うなー)で初めて披露されました。今から300年以上前のことです。
組踊は、本土の歌舞伎や能などの芸能に沖縄の芸能を加えて作られています。音楽に乗せて、抑揚をつけた節回しが独特で、今でいうミュージカルに近いです。
踊奉行は宴会部長のような出し物を仕切る役割ではなく、もっとプロデューサーの要素が強かったと考えられます。芸能に秀でていて、予算管理やスケジュール管理に優れ、人の心をつかんでいた玉城朝薫にぴったりの役職だったのです。
この日の演目は「執心鐘入」でした。これは「娘道成寺」のストーリーとよく似ているので、玉城朝薫が江戸上りの時に観劇して参考にしたと考えられます。
わかりやすいストーリーとシンプルな舞台装置、美しい衣装と心地よい音楽で、冊封使にも士族階級にも好まれていたのも納得です。
識名園も何度も訪れていますし、玉城朝薫の生誕の地も行ったことがあります。組踊も観たことがありますが解説していただけることで新たな発見がありました。またツアーに参加してみたいなと思いました。