沖縄のローカルテレビ番組「Aランチ」の「沖縄ふしぎ発見」で賀数仁然さんの解説の面白さに魅せられました。
たまたま見た組踊のワークショップがとても楽しく、組踊に興味を持ちました。
面白い賀数仁然さんの歴史解説と興味深い組踊の両方が楽しめるツアーを知って、何度も参加しています。
今回は組踊「北山敵討」と南山の歴史ツアーでした。さっそく紹介します。
過去のツアーの様子はこちら。
琉球三山統一した尚巴志(しょうはし)とは
琉球は約450年続いた王国です。
1429年に尚巴志(しょうはし)が三山統一したことで琉球王国が始まります。
それまでは三山時代と呼ばれていて、今帰仁(なきじん)を中心とする『北山』、首里・浦添を中心とする『中山』、糸満を中心とする『南山』の三つの政権が、覇権を競い対立していました。
琉球王国は、ふたつの王統があります。ふたつの王統があります。ひとつは尚巴志の父・尚思紹(しょうししょう)を初代とし、尚徳(しょうとく)まで7代63年間続いた第一尚氏、もうひとつは1470年に即位した尚円(しょうえん)から、王国最後の国王となった尚泰(しょうたい)まで19代410年間続いた第二尚氏があります。琉球王国は、廃藩置県によって1879年に首里城を明け渡すまで、約450年にわたって続きました。
佐敷グスク(さしきぐすく)
佐敷グスクは、尚巴志とその父である尚思招(しょうししよう)の居城です。
とても小さなグスクで、沖縄のグスクに見られるような石積みは見つかっていません。
下の段は後に作られた石積みで、矢印で示した上に少し残っているのがもともとあったもので、土留め役割をしています。つまり、佐敷グスクはそれほど勢力がなかったのです。石積みを作るためには、石を切り出し、加工して積み上げますので、技術者とたくさんの人材が必要になります。佐敷グスクは人材を集める程の勢力がない小さなグスクでした。
沖縄のグスクには必ず御嶽(うたき)があるのが特徴です。御嶽とは聖域であり、ニライカナイにいる神が降りてくる場所で、人々に大事にされています。
カマド跡です。この付近に台所があったと考えられます。
階段です。右がグスク時代にあった階段で、左は後に整備された階段です。
佐敷グスクはそれほど勢力がなかったので、発掘調査をしてもたいしたものは見つからないそうですが、カニがたくさん見つかるので尚巴志たちの好物だったのでは?と考えられているそうです(笑)
今も昔もおいしいものは好まれていたんですね。
佐敷グスクは、後に佐銘川大王、尚思招、尚巴志、尚忠、尚思達、尚金福、尚泰久、尚徳の8体を合祀した「つきしろの宮」が建立され、南城市指定の史跡になりました。
国王になる前の若い頃の尚巴志は、フラフラと遊び歩いているような小柄な男でした。
身長が148㎝くらいだったと記録があるそうです!
ある時、尚巴志は交易している船に遭遇します。船員から尚巴志の持っている刀が欲しいと言われ、尚巴志は船に積まれているたくさんの鉄の塊と交換します。琉球は琉球石灰岩が隆起してできた島なので、金属が取れませんでした。そのため、尚巴志は金属を欲しがったのです。
尚巴志は貰った鉄を加工して農具にし、農民たちに分け与えます。鉄製の農具で開墾することが出来て佐敷の稲作が発達し、やがて二期作も出来るようになります。
二期作って習いましたね。同じ作物を1年に2回収穫することです。
民が豊かになるのは素晴らしいのですが、他の地域の按司(あじ・豪族のような権力者)から狙われることになってしまいます。
島添大里グスク(しましーおおさとぐすく)
島添大里グスクは自然の地形を利用して作られた、とても大きなグスクです。14世紀頃、当時の支配者だった島添大里按司(しましーおおさとあじ)によって築城されました。島添とは「島々を支配する」の意味です。
浦添の語源と同じですね。
野面(のづら)積みの石垣が見えます。野面積みとは古くからある石垣の手法で、ほとんど加工されていない自然石を積み上げて作ります。漆喰などは使われていません。石垣が崩れてしまったところもありますが、石垣がずーっと続いていたので島添大里グスクはとても広いグスクだったことがわかります。
奥に建物があり、一段下がったところが御庭(うなー)で儀式などが行われていました。
礎石がたくさん見つかっています。礎石とは柱の土台になる石なので、大きな建物があったことがわかります。
島添大里グスクは、大里、佐敷、知念、玉城地域を支配下に置き、中国の明とも交易するなど大きな勢力を誇っていました。
佐敷グスクとは雲泥の差なので、よく尚巴志が攻め落とすことが出来たなぁと思います。
展望台です。
この日は曇っていましたが、とても眺望がよく他の地域の動向を掴むのに適していました。
尚巴志は長い年月をかけて、中山と北山を倒し三山を統一しますが、これは明との交易をするためだったと考えられています。当時の明は倭寇などの海賊船の対応に手こずり、鎖国政策を取ります。但し、冊封関係にある国であれば交易のライセンスを与えることにします。琉球は冊封関係にありましたので、交易のライセンスを得るために戦ったと考えられています。
尚巴志が戦いを好む国王様でなくて良かったなとホッとしました。
チチンガー
カーやガーとは湧き水のことです。島添大里グスクの水源でした。写真の左側から長い階段があって、その下に湧き水がありましたが、崩れてしまう恐れがあるので今は立ち入ることが出来ません。
チチンとは包むの意味です。グスクの外に水源があるため、毒物などを混入されると大変なことになってしまうので、カーを守る囲いで包まれていたことからこの名前になりました。
カーは信仰の対象になっているので、こちらからお参りできるようになっています。
おもろ殿内でランチ
南城市から新都心に戻り、「おもろ殿内」でランチです。
用意していただいた特別メニューをおいしく食べました。
組踊ワークショップ
集合場所だった国立劇場おきなわに戻り、子の会(しーのかい)の3名の演者と歌三線の奏者の方の組踊ワークショップに参加しました。
内容が前回と同じかなぁと思っていたら、今回は琉球舞踊の”浜千鳥”を教えていただき、参加者全員で踊ることになりました。
とても面白く興味深かったのですが、手の動かし方が独特ですぐには滑らかにはなりませんでした。
ご夫婦で参加された方が”家に帰ったら踊れるか試験しよう”と言ってましたw
ワークショップをご指導くださった立方(たちかた・役者の意味)はこの後の「北山敵討」にも出演されると聞いて、驚きました。
組踊「北山敵討」の鑑賞
「北山敵討」のあらすじはこちらです。
本部大主は、主君の北山の按司を亡き者にして城を奪い取り、生き残った若按司を探す為に臣下を差し向ける。一方、逃げ延びた若按司は、妹の思鶴と按司の臣下の謝名の大主を訪ねて国頭へ行くが、途中疲れて動けない妹をやむなく山中に置き去る。
謝名の大主は息子の里村と国頭地方の民情視察をしているときに主人の悲報を聞き、行方不明の若按司を探していた。雪が降りしきるなか、偶然にも若按司と思鶴に再会し、一旦は国頭まで逃げ延び、時期を待ちながら仇を討つことを誓う。途中、若按司一行が雪をしのぐため宿を訪ねると、先の戦いで死んだはずの臣下の岸本大主の嫡子虎千代がいた。
久々の再会を果たすなか、猟師の加那筑が現れ、本部大主の追手が近くまで来ていることを教えてくれる。謝名の大主は、若按司と追手から逃れ、残った北山の臣下を集め本部大主を討つための一計を案じる・・・
引用:国立劇場おきなわ
組踊は中国の皇帝の使者である冊封使のために公演されたものなので、儒教の思想が取り入れられていて、仇討ちや孝行などがテーマになることが多いです。
ストーリーは創作されたものですが、本部大主は実在の人物です。
組踊の創始者・玉城朝薫の代表作の朝薫五番の一部分が盛り込まれたような「北山敵討」は、琉球王国時代から上演され、明治以降は芝居小屋でも上演されていましたが、とても長いので、国立劇場おきなわで公演するのは初めてとのことでした。
仇討ちなので残酷な表現がありますが、仇の首を取るのではなく、生け捕りにしていました。残酷なシーンはないように工夫して作られているのだと思います。
きっと組踊は、食事をしながらお酒を飲みながら観たと考えられるので、最後は”めでたしめでたし”で終わるお話が多いのです。
素晴らしいキャストで、大作を見られて感激しました。
次回の組踊ツアーが楽しみです。また参加します!